あれが、一体いつのことだったのか正確には覚えていない。
彼が覚えているのは、天気予報が晴れを訴えていたにも関わらず、曇り空から白い花弁がひらひらふわふわと落ちてきて、それがあんまりにも綺麗な景色だと感じた気持ちだけ。
その日、彼たちは皆で手を繋いで歴史的価値がある品々が納められた博物館へと歩いた。
歩いたと言っても、その時代、彼の生きた時代では移動は殆どが電子処理で行われ、踏み込んだのは両足を数えてもたった10歩だった。
――10歩進んだ先で今度は20歩。そうして、彼は博物館の入り口へと辿り着いたのだ。
彼の知らない時代を模した博物館は、古き制度を取り入れており、紙のチケットを購入して係員に渡さなければならなかった。
彼の手を握っていた隣の女の子が、ニコニコしながら「先生ありがとう」とチケットを受け取る。
その次に、先生と呼ばれた大人の女性は彼にもチケットを手渡す。そのチケットは見慣れないもので、だからこそ、小さな彼らはそれが特別なものだと喜んだ。
先生が皆に「アラームが鳴ったらここに戻ること」と、きちんと伝え、そうして彼らはまだ見ぬ場所へと踏み込む為に三列に並ぶ。
彼は真ん中の列で、ソワソワと辺りを見渡していた。
目の前のゲートを越えた先は、彼の知らない時代、彼が見ることのない世界が広がっている。そのことに対するはち切れんばかりの好奇心が幼い彼の心を満たしていた。
係員と呼ばれる女性にチケットを手渡し、中へと踏みいる。その足は先ほどの様な数歩ではない。
決して煌びやかとはいえないその空間に、まず目の前に現れたのは大きなお城の模型。それは本当に木で作られた模型で、彼の生きる時代にはあまり見ないものだ。
彼が腕についた腕時計の様なものを触れば、立体映像で博物館の概要が現れる。
今日の展覧は、「武士」がテーマらしい。
それを確認して、彼は腕時計の映像を消し改めて周りを見渡す。
周りは皆友達と見て周っているらしく、ひとりぼっちなのは彼だけだった。
――だが、それはいつものこと。
彼は昔から、見えないものが見えることを周りから怖がられていた。恐れられていた。
それが例え彼の望む景色ではないとしても、彼の世界は見えるのが当たり前の世界だった。
だから、どうしようもない。
更には、彼には家族がいない。この時代に限っては、それは特別珍しいことではない。だが、見えることと養護施設の者だということは、彼をひとりぼっちにさせるには十分すぎるものだ。
そうやってひとりぼっちなのを改めて自覚して、彼は少し落ち込んだが、直ぐに気を取り直す。
彼は歴史が好きだ。人が紡いできた証。存在していた記憶。自分が生きていたことも、いずれは歴史になる。学校の先生が、彼にそう教えてくれたから。
音を立てない様に、と注意書きされた看板の前を通り、その横の展示ガラスへと進む。
そこには当時の武士が使っていたのであろう防具が飾ってあった。
説明書きがガラスに現れ、今度はガラスの中にその防具を着た武士が立体映像で現れる。
AIの武士が質問はないか、と尋ねるが、彼はその顔を横に振る。何も質問することはなかった。彼にとっては、これを過去の人が着ていたと、ただそれを感じるだけで良かった。
次に彼が見たのは、書物だ。巻物と呼ばれるものから、紙を束ねたものまでそこには展示されている。だが、それらにはあまり興味がないらしく、直ぐにその展示台から目を離した。
何しろ、彼は漢字があまり得意ではなかったから。
そのまま幾度か行き来して、絵画の飾られた細い廊下を通り、当時の武士の寝床を再現した部屋も潜り抜け、そこで、彼は足を止めた。
目の前の部屋は、今までの部屋よりもずっと静かで、ずっと綺麗だった。
ゆっくりと、恐る恐ると、数歩踏み出す。
――彼の瞳に飛び込んできたのは、美しい刃金。
武士の命と呼ばれた、刀たちがそこに並んでいた。
中には、再現された立体映像の刃金もあったが、彼の生きる時代の最先端の技術によって守られた刃金たちは、当時の美しさを保ちゆるりとその部屋で眠っていた。
彼は、その一つ一つを、息をするのも忘れるほどゆっくりと見る。
他の人もいるはずなのに、声は一つも聞こえない。彼の耳に届くのは、己の息遣いと、静かな足音だけだった。
そろり、そろり。
まるで、忍者の様に、彼は一歩一歩を踏み込む。眠る刃金に見定められているかの様に緊張しながら、進む。
彼の瞳に映る刃金は、綺麗で、それでもどこか切なく悲しいもの。
――人の命を奪った刃金。
――ただ祀られていただけの刃金。
――もう今は存在しない刃金。
武士と共に生きた刃に残る想いはあまりにも暗く、あまりにも尊く、あまりにも美しく。
それは、己を形作る歴史が産み出した、己と同じ存在でありつつ己とは全く違う物。
自分の生きた証は、こうして形には残らない。彼は一度目を閉じ、薄く息を吐く。
例え、彼自身が死を、幽世を、人々の歴史を見ることができたとしても、彼自身の歴史は何処にも残らない。
誰にも見ることができない。
それはあまりにも寂しく、当然の様に自分の世界を疎ましく思う理由になった。
ゆるり、ゆるり。
踏み出す度に揺らぐ腕が、自分はこの瞳に映る刃金ではないのだと主張し、少し悲しく思う。
あぁ、ひとりぼっちだ。
そんな風に、彼が悲観的に考えていた時だった。
彼は踏み出そうとした足を止める。そしてそのまま、ガラスの方へと歩み寄る。
それは、他の刃金と同じ様に佇む刀。
――その刀身には、美しく龍が彫られている。
「……おおくりから」
ガラスに映し出された説明書きを見て、その文字の上に書かれた平仮名を読む。
彼にとって、その漢字はあまりにも難しい。だが、その発音はあまりにも優しい。
ぽつりと、息を吐く様に呟いて、彼はガラスに手を当てる。
その刃金は、美しく、気高く、尊く、そして――ひとりだった。
かつて、様々な人に使われたであろうその刃金は、静かに、まるで存在を消したがっているかの様に浅く息をしている。
それにも関わらず、堂々と己はここだと、魂がそこにあると刃が謳う。
彼は暫しその刃金に見惚れ、そして、淡く微笑んだ。
「お前もひとりぼっちなんだ」
返事は当然返ってこない。
何しろ、刃金は物であり彼と同じ存在ではない。だが、彼はこうして違う存在に話しかけた。
それは、歴史が見えるからでもあるし、彼がそうしたいと思ったからだ。
同じ歴史から生まれた物は、その本質が彼と同じではなくとも、彼の目に見える限り彼の世界には存在する。
それはまるで、その存在そのものを歴史の一部だと認められる様に。
その存在を、自分と同じものだと認められるように。
「おれと一緒だな」
己の存在が、歴史の中にあることを彼は知っている。それでも、それはとてもあやふやなものだ。
他人には見えないものたち。
彼だけが見える世界。
それは、もしかしたら全部空想で、自分だけが見えるあのモノたちは、実は歴史の上に立っていないのではないか、と。
――それは自己否定でもある。
彼は、難しいことを考えてはいない。自己否定なんて言葉も当時は知らなかった。
ただ、自分の見えるものを恐れていた。
自分を恐れていた。
だからひとりぼっちだった。
ひとりぼっちを望んでいたし、それが自分だと思っていた。
「でも、お前もひとりぼっちなら、ふたりだからひとりぼっちじゃないな」
物に語りかける姿は、彼の時代でも可笑しいものではあった。故に、彼は物にも、そこに存在しないモノにも、いつもは語りかけなかった。
――例え見えていても、感じていても、ないものにしていた。
だけれど、今は。今だけは。
その赤みのかかった特別な、それでいて当たり前の普通の瞳で、刃金を見つめる。
優しく悲しい刃金が、彼を見つめ返す。見つめ返しているかなんて、何しろ相手には目がないから誰にもわからない。それでも、彼はじっとその刃金を見つめた。
幾つ時間が過ぎただろうか。
ゆるりと、誰かの足音が彼の耳に届く。それから、己の腕時計から聴こえる小さなアラーム音も一緒に。
それらの音を聴いて、彼はゆっくりと、名残惜しそうに刃金から目を逸らす。
「また、ひとりぼっちだ」
呟いて、数秒。
近づく足音。鳴り続けるアラーム。
彼は一度大きく息を吸い込んで、まずはアラームを切る。
それから、ガラスの向こうの刃金に笑いかけた。
「じゃあ、またな」
――掌が、指先が、ガラスから離れる。
刃金は何も言わない。
彼が見えるのは、感じ取ることができたのは、ただその刃金に込められた想いだけだ。
それでも、彼はその想いが先程よりも少し優しく感じた。
ガラスから遠ざかり、他の人がその刃金、おおくりからを見に来たのを見る。
そのまま、人によって見えなくなったあの刃金を決して忘れまいと、彼はその部屋からまた一歩を踏み出したのだった。
それは、彼だけが視える瞳でした。
了